プロフィール

ころた

Author:ころた
芦ノ湖と相模湖にしかバスがいない頃にルアーを始めた。師匠は常見忠、開高健(心の師匠ね)。吉田幸二よりは若い、ちょっとだけ。
30数年間の技術者としてのサラリーマン生活を終え、いまや悠々自適(と言うほど余裕はない)。技術者の悪い癖で理屈ばかりにやたらうるさい。当然、釣りも理屈詰めとなる。よって頼りにしたのは科学文献。文献検索を重ね魚類や湖、その植生などを紐解くと、出るは出るは面白情報の山。その一部をおすそ分けします。

HP復活から
バスリンク

ルアーフィッシング黎明期 その7 : 村田基 VS 田辺哲男

 さて「あの頃のバスプロ」について少し思い出そう。釣り雑誌にルアーの記事が載るようになり、バスについての情報が少しずつ世に出てくる。日本初のバスプロは吉田幸二というのは有名な話。1984年のことだ。しかし実は彼が日本初ではなかった。先駆者がいたのだ、アメリカに。ヒロ内藤である。ヒロ内藤がアメリカのB.A.S.S.に初参加したのは1983年、そのとき俺はアメリカにいた。仕事で約1年間、LA南部のHuntington Beach に住んでいた。
 
 その頃の思い出話は尽きないのだが、それは後日。俺が住んでいたアパートはプール、テニスコート、ジム付の2LDK。それが30前の独身男の普通の暮らしなのだ。こりゃあ向こう50年は日本は敵わないと思い知ったよ。で、日本には影も形もなかったケーブルテレビも当然完備している。ほぼ今の日本のプログラムが35年前のアパートで見られる。「釣りチャンネル」もあったよ、名前は違うけど。色々な本場のテクニックもテレビを通して会得していった。
 そこでヒロ内藤なる日本人が紹介されていたのだ。改めて彼のプロフィールを見ると「1983年、B.A.S.S. Master Classicに日本人初のプレスアングラーとして参加」となっているので、トーナメントプロとは違うのだろうが、バスフィッシングの世界で単身アメリカに渡って根を張った最初の日本人だろう。実際、その時彼はバグリー社に勤務していたのだ。宇宙飛行士 向井千秋氏の弟だし。遅れて1984年、田辺哲男がB.A.S.S.にトーナメンターとして参加するのだ。

 その田辺と村田基の対談がシマノTVで公開されている。ちょいと面白いので覗いてみてね。

 この対談では村田が「ブルブリング」なんてアホな名前を付けて、ワームのシェイキングを初めて田辺に紹介したと話している。田辺がアメリカに行って帰って来た時のことらしく、恐らくは1985年あたりの出来事だ。そう、ワームのテクってそんなレベルの時代だったのだ。
 ちょっと待てよ。それって俺が村田の前でアメリカ仕込みのトゥィッチングを披露した後じゃん。村田は俺の技を盗んだのか?(マタ偉ソウニ、マァ) 詳しくは[釣れづれなるままに そう言えば村田基って]を参照されたし。
年表的にまとめてみようか。
     俺   ヒロ内藤      田辺哲男     村田基 
1955  誕生   誕生
1958                  誕生       誕生
1962 釣り開始 
1968 初バス
1983 渡米    BASS参加
1984 鹿島港事件           BASS参加   WaterLand起業
1985                       ブルブリング紹介
1988        ロッド発売     JB三冠王

 そうか、俺の伝授したテクが回りまわって田辺哲男を三冠王に押し上げたのか。これからは己をKing Makerと呼ぶことにしよう。(オマエ、絶対思イ過ゴシダカラ)

ルアーフィッシング黎明期 その6 : 平砂浦の波頭をスズキが走る

 釣りの上で人から「すげぇ」と言われた人生2回目の出来事は、高2の夏に訪れる。時は1972年8月、場所は千葉県平砂浦。なんだまたバスじゃないのかよと言うツッコミは甘んじてお受けする。実は俺はバス釣りが下手なのだ。
 今でこそ平砂浦はサーファーのメッカになってしまい、投げ釣りなんて自由にできない海になってしまったが、その頃はバスフィッシングがマイナーなのと同様、サーフィンもマイナーだった。平砂浦は投げ釣り天国だったのだ。で、狙いは当然スズキ。シーバスなんて呼ばなかったよ、スズキだよ。ルアーも至ってシンプル。ラパラF-9の根元にでっかい卵浮きを付けて、投げ竿でえいやっと投げ、ひたすら巻き取る。ルアーは他にはいわゆる弓ツノだ。今は釣具屋でもまず見ないが、大き目の針を水牛のツノに埋め込み、鳥の羽なんかで飾り付けた日本の伝統疑似餌。アワビなんかで飾り付けてあって結構お高い。まだ売っているのかなと思っていたら、ちゃんとヤマシタから売られていた。プラスチックだけどね。これも卵浮きでうぉりゃ~と投げる。すると釣れない。

ツノ

 いくら大昔でもやっぱ簡単には釣れんのよ。この時は両親と近所の板前をやっている知人と4人で行って、俺と父親が釣って来た獲物をその場で捌いて食べちゃおうという企画だったのだが、そんななので朝飯は塩握りだけでオカズなし。そろそろ昼飯時も近づいてきた頃には、板さんの「魚はまだか~」という催促の声も遠ざかって来た。で、父親はスズキを諦めて餌釣りに狙いを変えた。しばらく釣っているとポツポツとキスやハゼが上がった。

 俺はそれでもひたすら投げ続ける。夏の平砂浦には土用波が繰り返し押し寄せ、夏の太陽がさんさんと降る注ぐ。広大な砂浜にはほぼ俺達だけ。それだけで十分気持ちいい。そんな時、きれいにブレイクしていく波を見ていると、30mほど沖の大波のショルダーを黒い影が物凄いスピードで横切っていく。魚だ、それもデカい! しかも何匹もいる。俄然やる気を出してキャストを繰り返す。知らぬうちにリトリーブスピードが速くなる。これが良かったのか、数投の後に今まで経験したことのない強いアタリがロッドに伝わる。全力の合わせ。掛かった! ポンピングしなければリトリーブできないという経験も、その時が初めてだ。そしてスズキの豪快なエラ洗い。全身の血が頭に昇っていく。慎重に慎重に、いやラインを緩めるんじゃない。ドラグはちゃんと調整してあるか?ラインの結び目はもつのか?色々な思いが交錯する。
 ものすごく長い時間が経過した気がした。いや実際には数10秒なんだろうな。波に乗せるようにしてビーチに引き上げたスズキは約95cm。初めて見る巨魚だ。意気揚々と両親の元に持って帰った。
「おぉ!〇〇ちゃんすごいじゃねぇか!」
「ホントに釣って来たの!」
賞賛の嵐だ。そして板さんオジサンの捌いたスズキの洗いの旨いのなんの。波頭を横切る魚影、30m先で炸裂する飛沫、波と共に引き寄せられたスズキ、そして洗いの旨さ。高校時代最高の思い出かもしれない。惜しむらくはこのスズキが未だに自己ベストのまま未更新なことだ・・・

ルアーフィッシング黎明期 その5 : 湯川をレインボーが切り裂いた日

 で、このロッドがさく裂するのはその年の春。俺は高1になってすぐのゴールデンウィークだ。その頃、俺の叔母が奥日光湯元の某ロッジを管理していて、毎年夏休みには1,2週間遊びに行っていた。しかし今年はウエポンがある!何としても早く行きたい。毎年5月1日に解禁する湯ノ湖湯川がターゲットだ。憲法記念日に高校の友人2人と東武特急に乗って日光に向かった。
解禁3日目の湯ノ湖はアングラーでごった返していた。ウェーダーもない我々は湖を諦め、湯川を下って行った。連れの2人は釣りはやったことがあるレベル。彼らはルアーではなく延べ竿にイクラ餌でトラウトを狙う。俺は当然、ミッチェル410にオリンピックのグラス竿。ウルトラライトのロッドがここでは威力を発揮する(はず!)。解禁直後の連休だ。ここ湯川にも釣り人は多いが、釣り下って行けばポイントは見つけられる。俺はスピナーを中心に川岸から基本、上流に投げ込んでいく。友人はその周りで足元にエサを流し込む。釣り開始から30分はノーバイト。でも魚の「気」はある。釣れる!

ほら、あそこにマスがいるだろ。見える?
訳知り顔に俺が言う。我々が立っている地点から5,6m上流に黒い魚体が見えた。
「見ててみ。」
 自信たっぷりに俺は言って、魚影の数m上流にメップスアグリア 1/6 Ozを投げ込んだ。上を向いてホバリングしているマスの脇をルアーが通り過ぎようとした瞬間、ゴゴンッと明確な当り。
「えっえっ!」(これは俺)
「おっすげぇ~!」(友人)
 おいおい、自信たっぷりな割にはずいぶん自分が驚いているねぇ。いや、驚くでしょ。そんなに注文通りに釣れた事なんてなかったもん。トラウトらしいファイトを見せる魚とのやり取りを楽しんだ(ホントは必死だった)後、手元に寄せられたのは40cmほどのレインボー
「ホントに釣れるんだぁ。」
「アタリマエだよ。魚の居場所さえ見極めれば一発でしょ。」(嘘である)

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 その後は友人もやる気になって釣っていたが、結局彼らはノーヒット。俺はその後も3匹を追加してビクに魚を収め、意気揚々とロッジに引き上げて行った。夕食のまかない飯に追加してもらったニジマスのムニエルの旨かったこと。それ以上に友人と叔母の賞賛の眼差しが、俺を高揚させたディナータイムだった。(これまた自意識過剰・・・)

 釣りの上で人から「すげぇ」と感心された事って、何回あっただろう。少なくともその第1回目がこれだった。あっ、高校時代にもう1回あったな。それは・・・

ルアーフィッシング黎明期 その4 : 遂に憧れのミッチェルが!

 時代は1970年代に入ろうとしていた。小遣いのほぼ全てをルアーに投入していた俺のコレクションは増えていく。ラパラのFとCD,ジッターバグ,クレージークローラー,スーパーソニック,ハイロー,ロングA 等々々・・・。ワームは買わなかったのかって?買わないのではなく買えない、日本にはまだワームはなかったのだ(いい時代でしょ)。
 日本に初めてワームを紹介したのは、かのテツ西山と言われている。wikiによれば氏がワームを初めて日本に紹介したのは1974年、11PM(またもイレブンフィッシングだ!)でのことらしい。俺の中学時代にはなかったのだ。その後、テツ西山氏は死んだ魚の身体からワームが大量に出てくることに心を痛め、以後、自ら日本に広めたワームに手を出さなかったと言う。後年の氏はもっぱらフライマンという印象だったが、その背景にはこんなエピソードがあったのだ。今のパツキンヘラヘラバスプロよ、お前たちにそんな気概があるか?

 さて俺自身の話に戻ろう。中2中3と相模湖メインで釣行を重ね、たま~にはバスを手にすることができた。もっぱら単独オカッパリ、電車釣行だ。まだ廻りにほとんどバスアングラーはいない。相変わらずたま~に釣れても自慢をする相手もいないのだが、愛用のメップスミノーに加え、最初にラパラ F-7 銀青でバスを上げた時には思わず踊っちゃったね。これも写真に収めておきたかったのだが、中学生が自由に使えるほどカメラは安くはなく、写ルンですもまだ世に出ていなかった。父親のカメラはハッセルブラッドの2眼レフだったよ。そんなもん借りられない。
 毎月の小遣いはルアーに消えたが、正月に貰うお年玉はぐっとがまんして3年間手を付けずにいた。俺には野望があった!憧れのミッチェルを買うのだ!!  釣り本によればスピニングならミッチェル両軸ならアンバサダーというのが定石。日本製はダイワもオリンピックも模造品の域を出ない。俺はメインはバスだがたまには川のトラウトもやりたいなぁ。ならばミッチェル。よし410で決まりだ!当時の値段で410が1万円ちょっとだったと記憶している。
 お年玉3年分でもロッドに掛けられる金はそう残っていない。仕方がない、ここは国産のグラスロッドで我慢しよう。その頃ようやくルアーを扱うようになった近所の釣具屋に行ってミッチェルをオーダーする。街の小さな釣具屋にフランス製リールなんて在庫してはいない。俺は鼻高々で釣具屋のオヤジに注文した。オヤジがどこに発注したのかは知らんが、2か月も待たされてようやく入庫した。まあどうせ冬だからいいか。それがこれよ!!

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 まだちゃんと働くよ。この卵型のフォルムがかわいいのよね。ハンドルも今のリールに比べれば軽くはないが、当時の国産品にはないスムーズさ。オートのベイルリターンのかっこいいこと!毎日自宅でシャドーフィッシングしていたな。オイルなんかやり過ぎてベトベトだ。スペアスプールもプラスチックのケースにさりげなく入っている。

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 一方、ロッドはオリンピックのペナペナグラスを購入。いまで言うならウルトラライトに近いかも。もう何10年も前に壊れて捨ててしまったが、ブランクが半透明で光が透けるという2本継ぎロッドだった。バス用と言うよりトラウト用だな。
 そしてこの新たなる武器を携えて魚を釣るのは2か月後、忘れもしない1970年のGWだったのだ。

 

ルアーフィッシング黎明期 その3 : 11PMが世界の釣りへの扉を開いた

 遂に人類が月に降り立った。アポロ11号の月面着陸は1969年7月20日。宇宙少年とはいかないまでも空想科学少年であった俺は心躍らせてケネディ宇宙センターからのサターンロケットの発射から司令船コロンビアの月軌道周回、そして月着陸船イーグルの月面着陸、アームストロング船長の第一歩を固唾をのんで見守っていた。釣りに何の関係もないだろうって?これがあるんですよ、俺にとっては。

 アポロ11号飛行の様子はテレビで生中継され、日本の我々も見ることができた。それもほぼ1日中。そしてコロンビアが月軌道周回に入るというその時の放送は7月19日の深夜、その番組は「徹夜で見ようアポロイレブン」。何のことやらと思うだろうが、これは伝説の番組「11PM」の中で中継されたのだ。憶えてます?11PM。今の地上波の深夜番組よりもかなり大人特化した番組で、エロもグロも扱っていた。その時、中2の俺は家に一台しかないテレビでこの番組を見ることははばかられた。それがこのアポロ中継を契機に大っぴらに見られるようになった。
 大橋巨泉の11PM、おもしろかったよ。女の子の裸もよく出てきたのだが、家族と一緒の時はそこは見ないふりをして、最大のお楽しみはイレブンフィッシング。そこに登場するのが服部名人。面長な顔に眼鏡と帽子といういで立ちで世界中を釣り歩いた映像が、11PMの名物コーナーだった。アラスカのサーモン、ニュージーランドのトラウト、フロリダのマーリン。世界旅行が夢の夢だった50年前に服部名人は釣りだけのために世界を旅していた。中2の少年が憧れない訳がないよね。開高健の「 Fish On! 」が1971年だったから、まさにレジャーとしてのフィッシングを日本に広めたパイオニアだった。そのパイオニアに出会うことができたのは、アポロ11のおかげだったのだ。

 ちなみに11PMではフィッシングの他にも、新車紹介の「カーガイダンス」や「麻雀実践教室」「ゴルフ教室」「秘湯の旅」なんていう企画があって、全部今のプログラムの元祖だった。「秘湯の旅」ではウサギちゃんがおっぱい出して「効能は?」なんて言っていた。あれも11PMが走りなのだ。

 その大橋巨泉は2016年に亡くなられ、服部名人は2011年に他界した。常見忠師匠も2011年に、開高健先生に至っては1989年に58歳で早逝してしまう。その後には薄っぺらな釣りプロと貧弱な釣り番組しか残らない。

 釣りはテクニックじゃない、釣果でもない。頭で考え心で感じることなんだって、これからは誰が教えてくれるんだろう。

ルアーフィッシング黎明期 その2 : 人生初バスはメップスミノー

 中学に進学した。地元の中学校ではあるが、今や日本一難しいという入試を潜り抜けなければならない私立中学だ。でも入学してしまえばこっちのもの、日曜に釣りぐらいできる。釣りの本だって読める。まず手にしたのが憧れの常見忠先生による初心者向ルアー本。名前は忘れたが、挿絵が多く入っているテキストのような本だった。中心は湖でのトラウト。バスについても書いてあった。するとどうやらバスを狙うのならスプーンではなくプラグだと。当時の本は今のようにあからさまにメーカーのルアーをよいしょしていなかった。らしいイラストは載っていたので、それを頼りに準地元 北千住の上州屋本店を探しまわる。
 まずはラパラ。真っ先にフローティングの金黒と銀青を買った。中学生になって小遣いが増額したのが嬉しくて仕方がない。それ以降、毎月1個ずつルアーが増えていった。ボーマーベイト、ジタバグ、ザラスプーク。スプーンならトビー、ダーデブル。スピナーも買ったよ、ブラックフューリー、メップスミノー。どう、この統一感のなさ。ほぼ手あたり次第だった。

 実釣の方は中学生の身ではなかなか行けなかった。そして小学6年生の相模湖での初体験からはや1年。中1の夏休みにそのチャンスは訪れた。家族で山中湖に1泊旅行に行くことになり、俺と父親は釣りが目当てで道具を積み込んだ。1日目は観光スポットを回り、山中湖畔に泊った2日目の早朝、俺と父親は釣りに出かけた。今回は陸からの釣りだ。ボートの上の父親に遠慮することもない。場所はたしか平野ワンド。遠浅で水草が茂るワンドを(当時はシャローなんて言葉もない)ゴム長の中に水が入るのも気にせず歩き回る。買い揃えたルアーは総動員。パターンもポイント適正もあったもんじゃない。手あたり次第に投げる。スプーンもスピナーも。
 そして日が完全に昇り、そろそろ朝食におにぎりでも欲しくなってきた頃、遂にその時が来た! ポイントはキャンプ場前。芦を縫うように引いていたルアーに突然ガツン! 一気に血液が沸騰する。指先が震える。硬めのグラスロッドを介して伝わるバスの鼓動。それまでの13年の人生において、この時ほどの高まりを覚えたことはなかった。いや、その後の人生でも、この時を超える興奮はあっただろうか。
 そして手繰り寄せられたのは35cmほどのブラックバス。初めてこの目で見るバスは、猛々しい生き物に思えた。そしてその口元にはメップスミノー。そうなんとスピナーだったのだ。誰かに自慢したかったが、周りにはバスを狙っている釣り人なんか一人もいない。父親のヘラ釣り座ははるか遠くだ。常見先生の本には「バスフィッシングは Catch & Release が基本」と書いてあったので、ホントは持って帰りたい処をその場で放流。写真くらい撮っておきたかったなあ。

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 その後、このメップスミノーは俺の必殺アイテムになっていく。確かによく釣れた。でも今考えると、その頃のバスはそこに居さえすれば何でも食ってきた。要はたまたまバスの前を通り過ぎたのがメップスミノーだったんだろう。必殺アイテムになったのも、それだけ数多く投げ込んだという事だったんだ。


CATEGORY:釣れづれなるままに

THEME:釣り | GENRE:趣味・実用

ルアーフィッシング黎明期 その1 : 常見忠 銀山湖の衝撃

 そう言えば村田基って・・・で30年以上も前のことを書いたら意外と反響があったので、オヤジの特権と言うか役割と言うべきか、大昔のことを思い出して書いてみよう。それは日本においてルアーフィッシングやバスフィッシングがポピュラーでなかった時代、そうルアーフィッシング黎明期のことだ。

 俺が釣りを始めたのは小学校低学年の頃、1960年代半ばだ。釣り好きの父親に連れられてヘラの釣り堀に行き始めた。埼玉の幸手園や大田区の小池釣り堀、そして地元の荒川遊園釣り堀。野池なら印旛沼や入間の宮沢湖(釣り禁止になったんだね)、千葉なら亀山ダムや尾蛇が池、等々。小学生のオレにヘラ釣りの神髄は分からなかったにせよ、釣りの楽しさを覚えるには十分な経験だった。
 そして小学校6年生のある日、父親が毎月買っていた「フィッシング」の誌面に衝撃的な記事を見つける。「常見忠、銀山湖の巨大イワナをスプーンで釣る」という記事。写真には小さな靴ベラみたいな金属片に70cmを越えるイワナが掛かっている。なんだこれは! スプーン? サジで魚が釣れるのか? 第一、銀山湖ってどこ?分からない事ばかり。
 ヘラと川の小魚しか釣っていなかった俺が、突然ルアーに興味を持った。でも近所の釣り具屋にそんなもんは置いていない。情報は釣り本が頼りだ。本に紹介されている道具は高価な外国製品ばかりだが、取りあえず堤防で使っていた重~いグラスロッドと小型のスピニングでできそうだ。問題は釣り場所とルアー。で、芦ノ湖津久井湖・相模湖にブラックバスがいることを知った。いや、そこにしかいなかったのだ。相模湖ならヘラを釣りに行こうと父親をそそのかして脇でバスを釣ることができるぞ!
 問題はルアーだ。いつもの地元の小さな釣り具やに行っても「ないよ」の一言。大きな店じゃないと買えないぞ。じゃあと目を付けたのが千住にできたばかりの上州屋本店。父親と一度行ったことがあるその店は、大きいがごちゃごちゃした安売り釣り屋だった。あそこならある!千住なら自転車で30分、楽勝だ。それにしてもあのごちゃごちゃした店が大企業になるとは夢にもおもわなかった。で、貯めた小遣いで買ったのが、本で紹介されていたABUのトビー。200円くらいだったかなぁ。当時の6年生には大金だ。清水の舞台から飛び降りる覚悟で色違いを3個購入。その日は嬉しくて一緒に布団に入れて寝た。えっ、プラグってか?そんな高いものはとても買えないって。

 さあ First Fishing だ! 時は夏休み、場所は相模湖。6年生の興奮が伝わるだろうか。父親と一緒にボートに乗り込み、ワンドに張ったロープに船をもやって父親はヘラを釣り始める。俺はその横でスピニングロッドを持ち出して、買ったばかりのトビーを結んだ。手前でトビーを泳がせるとプルプルとした触感が伝わる。お~~~~!!それだけで大興奮!そこからはもう投げては巻き投げては巻きの繰り返し。なるべくボートが動かないようにしていても、繊細なヘラ釣りには良いはずがないが、父親は笑って見ていた。
 で、釣果は?約1時間でトビー3個を根掛りさせておしまい。俺の2か月分の小遣いは1時間で湖に消えた。バスのバの字も見えなかった。そりゃそうだわな。初めてのルアーを初めて行った湖で、しかもバスがどこにどれだけいるのかも分からずに釣れるほど、甘くはない。

 でもこれで俺はルアーの虜になった。中学生になれば小遣いも増えるし、一人でも釣りに行ける。釣り本を読み漁りながら、少年は成長していくのであった・・・

釣りに関する迷言集など・・・

「釣りに関する名言集など・・・」に続き、調子に乗ってちょっと笑える迷言を集めてみた。

サミュエル・ジョンソン
 18世紀のイギリスの詩人にして辞書編纂者。迷言などとは恐れ多いが。
「釣り竿とは一方の端に釣り針を、他方の端に馬鹿者をつけた棒である。」
 釣りではないが、この言葉もぐっとくる。
「音楽は背徳を伴わない唯一の官能的な愉しみである。」
「恋は愚か者の知恵であり、賢人の愚行である。」

スパース・グレイ・ハックル
 どこの誰だか知らないけれど、誰もがみんなうなずく。
「もし釣りが仕事の妨げになるのなら、仕事の方をあきらめなさい。」

ニュージーランドの諺
 これもハックルの親戚みたいな言葉。
「最良の仕事の日よりも最悪の釣りの日の方が、まだマシである。」

ジュール・ルナール
 フランスの小説家、詩人。「にんじん」は読んだ御仁も多かろう。
「恋人を作らずに女を知ろうなどというのは、ちょうど釣り人が糸を振り回しただけで魚を知った気になるようなものである。」

ロシアの諺
 えっと、仰せごもっともです。
「釣りの話をするときは両手をしばっておけ。」 

中村星湖
 明治~昭和の作家、翻訳家。釣りに関する著書も多い。己を顧みて納得するでしょ。
「釣りは性欲の延長である。」

村田基
 ある釣り番組で視聴者からの問いに答えて。
「村田さん、ルアーをどこに投げればいいんですか?」
「全部です!」
「何を投げればいいんですか?」
「全部です!!」


ころたオリジナル
 聞いてやって下さい。
「船頭の話は過去と未来ばかり。現在がない。
昨日はよく釣れましたよ。明日は良さそうなんだけどね。で、今日は・・・」


ブルース リー
 そうか、彼は釣りのことを言っていたんだ!
「Don't think. Fee~l」

ころた
 俺も言っちゃうよ。
「Don't feel. Thi~nk.」

釣りに関する名言集など・・・

釣りが好きだ。水辺に立ってロッドを振るだけで、なんと清らかな己になれることか。
本を読むのが好きだ。己の知識など部屋の片隅のゴミ溜めだ。先人達の知恵を経験を本から譲り受ける。
計画し調査し仮定し空想するのが好きだ。それだけで俺の部屋は清流に荒海に深山に砂漠に宇宙に変幻する。
ならば先人達から釣りに関する名言を賜ろう。そのいくつかは座右の銘に昇華する。(解説なんてしないよ、ヤボだろ)

アイザック ウォルトン卿
 かの「釣魚大全」が書かれたのは17世紀。イギリス貴族の高貴な遊びであった釣りを体系的にまとめたばかりでなく、釣り人の心理や生態まで描写している。その言葉は4世紀経っても色あせない。
「おだやかなることを学べ。」
「魚釣りは奥深い数学のようなものだ。誰も完全にマスターする事はできない。」

開高健
 我が心の師匠、「オーパ!」「Fish on !」「もっと遠く」「もっと広く」どれもむさぼり読んだ。もちろん数々の小説も。Catch & Release を日本に広めたのは開高健だと俺は信じている。
「釣りとは絶対矛盾的、自己統一である。」
「釣りは芸術である。芸術とは自然にそむきつつ自然に還る困難を実践することである。」
「釣りは、運、勘、根である。つまり、人生だな。」
「釣りはままならないものである。むろん、だからこそ、男は今日もまた竿を肩に、家を出て河へ、海へと向かうのだけれど、男にとって人生そのまま、遊びもまた……」

夢枕獏

 そして開高健の跡を継ぐべく世界を釣りまわる夢枕獏。「平成釣客伝」の雰囲気はそっくりだなぁ。
「釣れない釣り人は哲学者。釣れた釣り人はただのお調子者。」

林房雄
 プロレタリア文学作家であった林が、戦前に転向し後に大東輪戦争肯定論までぶち上げる。それに関わらず釣りに残した言葉は深い。
「釣り師は心に傷があるから釣りに行く、しかし彼はそれを知らないでいる。」

アーネスト・ヘミングウェイ
 彼もまた俺が心の師匠と慕っている作家。
「釣れない日は人生について考える時間を魚がくれたと思え。」

ジェームズ ヘドン
 かのヘドン社の創業者。彼がプラグを発明したと言われるのは20世紀初頭。
「釣りを知らないことは、人生の楽しみの半分を知らないことだ。」

中国の諺
 最後にお馴染のコトワザを。
「一時間幸福でいたかったら酒を飲みなさい。
 一週間幸福でいたかったら、 結婚しなさい。
 一ヶ月間幸福でいたかったら、 良い馬を買いなさい
 一生幸福でいたかったら、 釣りを覚えなさい。」


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